sat's blog

2010/12/23

新宿Nikon Salon、コニカミノルタプラザを訪れる

新宿ニコンサロン、コニカミノルタプラザを訪れた。


■新宿ニコンサロン

〔新宿ニコンサロン〕
新鋭たちの写真空間juna21
mk展「悪い血」

作家は「“私の人生ははじめから呪われたのに間違いないです。このような運命は一生続いたんです。”(ボードレール)

人間は誰にも現われない普遍的な暴力性を持っている。その根源は交感された対象との関係から始まっている。
関係による暴力性も、結局は自分が関係に影響を及ぼすことができないという無力さと疎外感から表出される。
作者が私的記録を始めた毎瞬間瞬間に無力感と怒りを感じた理由はそこにあった。その怒りは、現在を過去の一定時間に戻してイメージとして拡張されて暴発した。」と書いたが、展示された作品のどこに暴力性が出ており、どこが爆発しているのだろうか。
少なくとも展示会場を6回廻った俺の眼には入ることがなかった。
この作家が韓国人だから感性が違う、ということではないだろう。
juna21の選考者がなぜこの作品を取り上げたのか、俺には不思議でならないので聞いて見たいと思う。
(C)

〔ニコンサロンbis新宿〕
新鋭たちの写真空間juna21
高宮奈美「Wonder Drug」

作家は「時代とともに過剰化していくファッションモードや身体行為。作者はそれらを遊戯化することで、普段の日常感覚を変容させ、困惑の世界へと導こうと試みている。
テーマは、「現在の我々にとって衣装モードとは何か?」ということへの問い掛けをきっかけに、現在という時代の特性を考えようとするものである。
言うまでもないことだが、古くから衣装と人の生活は切り離せない関係にあった。はじめは肉体の保護として、やがて社会の制度として機能してきたと言える。身分制度、職業、性別、年齢など社会的立場の違いを表すものとしての要素が大きく占めるようになってきた衣装だが、今や衣装モードは個性を外に発信する個人的な自己表現の割合が大きくなってきている。そしてこの現象は、この過剰な消費時代にあって、ますます過激になってゆくように見受けられる。
作者は、特殊な衣装と遊戯化したポーズのモデル撮影をすることで、この現代の状況を表現しようとしている。」と言う。
カラフルで彩度の高いプリント、モデルの奇抜なポーズ、異様な衣装、確かにインパクトはある。
しかし、しかしだ、作品に作家の言うほどの中身があるのか。
デジタルだからできうる絵作り、観ていて頭が痛くなってくる。
そこまでも作家の狙いだとしたのなら“成功”なのだろう。
(C+)


コニカミノルタプラザ

〔ギャラリーA〕
久保正彦写真展「PORT ~子供の頃に見た、あの風景だけがまだ見つからない~」

始めに作品を観た時、この作家は何を表現しようとしているのか、まるでわからなかった。
なんとなくわかったのは、作家のコメント「私は子供の頃から成人になるまで横須賀に住んでいたのですが、小学生ぐらいの時期、よく父や友達と近くの港に釣りに行き、楽しい時を過ごしました。
父が横須賀市内の病院に入院したことをきっかけにその港を再訪してみたのですが、子供の頃からはずいぶんと年月がたっているにもかかわらず、その光景はほとんど昔のままの様に思えました。
結局父は他界してしまいましたが、その後も何度か暇を見つけては港に足を運んでみました。 そこには、父との接点が隠されているのではないかと思ったからです。父とはお互いに遠慮しあっていたからか、根本的な気持ちの部分ではあまり理解しあうことが出来なかった様な気がします。
昔と変わらないように思える場所を歩きながら、父と私の関係を思い出しました。わかってきた事や、わからなくなった事、自分は果たして何をすることが可能で何をするべきだったか。
そんなことを考えながら写真を一枚一枚撮り、この作品を形作ってみました。」を読んでだ。
そうなのだ、この作品は作家が己の子どもの頃の感傷を追った私写真だったのだ。
そういう約束事を理解してわかるという作品はどうなんだろう、弱いと言うしかないだろう。
(B-)

〔ギャラリーB〕
九州産業大学大学院芸術研究科写真専攻「six tools」

作家たちのコメントは「私たち6人は九州産業大学で写真を学ぶことで出会いました。それぞれの経験や考え方が違う中で、お互いに刺激を受けあって作品制作に取り組んでいます。
北九州の浄土宗西山派の寺に生まれ、そのお寺をテーマに撮影する者。「在日朝鮮人について知りたい」と思い、21歳の誕生日が来てすぐに関西へ撮影に行くようになり、22歳には撮影地を少し変えて戦前「廣島」の記憶をたどりながら、現代「広島」から関西へと撮影を続ける者。カメラから見た街をそのまま印画紙に焼き付け、一瞬を見抜き、一瞬を写し込む。まるでそこにいるような、そんな感覚になれる写真。悲しい瞬間や微笑ましい瞬間を永遠のものへと出来る写真だからこそ見える世界を撮っている者。自分の視野を広げたくてベトナムの地に行き、醸し出す空気に惹かれた者。僻地を目指してアラスカへ旅に出た者。そして昔、滞在していたインドへ旅する者。
そのような6人が集まり、写真というツールを通して私たちが何を感じ考えたのか、それぞれの視点を見て感じていただけたら幸いです。」というものであるが、写真教育とはを考えさせられてしまった。
作家たちは大学院博士課程に在籍している研究者でもある。
その研究の結果がこれであり、現代写真がこれであるのなら、俺は写真とは袂を分けたほうがいいような気がする。
教育や研究では感性を研ぐことはできない事を証明したような気がする。
(C-)

〔ギャラリーC〕
日本山岳写真協会・選抜展「それぞれの山」

日本山岳写真協会のコメントは「日本山岳写真協会は創立(1939年東京山岳写真会として発足)以来71年、プロ・アマ400余名が在籍し、山岳自然をテーマとした写真映像の創作、研究、発表を行う作家集団です。主に毎年写真展を開催、一般公募による作品展示、写真集等の出版物の刊行、カレンダーの発行、公開講座、撮影会、研究会等を開催しています。
また、全国に8支部があり、各支部毎に写真展を開催、写真集の刊行等さまざまな活動を行っています。」である、山に取り付かれた作家がいかに多いかわかる。
しかし、一つひとつの作品は美しいと思いはするのだが、作家たちには誠に失礼とは思うが「いつかどこかで観たような写真ばかり」であり、新たな感動はおこり難い。
ドキッとさせてくれる1枚があれば「眼から鱗」となるのだが。
(B-)

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