sat's blog

2009/12/03

新潮社 新潮文庫 や-5-29 『沈まぬ太陽(五) -会長室篇・下-』 山崎豊子 著 を読む

本著は「週刊新潮」で連載され、1999年に単行本で刊行され、2002年に文庫本として刊行された。

いや、改めて考えてみても、これだけの大長編小説を一気に読んでしまったものだと思う。
事実を元に再構築された小説だという重みばかりだけではなく、作者の山崎豊子氏の力量なのだろう。

「会長室篇」では政管民の癒着、汚さが暴かれる。
その矛先はその利害を危うくするものには例え経営者であろうと、労働組合の闘士であろうと遠慮なく襲い掛かる。

先にも書いたが、私にはどうしても国鉄の「民営・分割」化の時の重苦しく辛い日々が思い起こされてならなかった。
日本航空は御巣鷹山で世界最大の死亡事故を起こし、JR西日本では列車脱線事故でなによりも貴重な人命を数多く亡くしている。
その後の無反省さは報道で明らかにされてきたとおりである。

しかし、その第四の権力とさえ揶揄されるマスコミも「純粋培養の精錬結託」なものではない。
“公平と平等”の名の下に権力に有利な不公平な報道がまかり通る。

まじめに働いていれば誰にでもわかる「おかしな事」も、“大人の対応”でいずれ忘れ去られていく。
その結果がどうなっているかは明らかであろう。

「青臭い理想論」がなぜいけないのであろうか。
「清濁飲み干す感覚」がなぜトップの立場に立てば求められるのだろうか。

日本という国は国民自らが立ち上がって自らの手に権力を持ったことがない。
「民主主義」を“押し付けられた”のであれ、“輸入”したのであれ、それが日本の政治権力の汚さの原因ならば考えなければならない。
「政治を我が手に」、それがやはり求められているのではないだろうか。
(A++)

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]



<< ホーム