sat's blog

2006/09/29

新宿ニコンサロンを訪れる

新宿ニコンサロンを訪れた。


■新宿ニコンサロン http://www.nikon-image.com/jpn/activity/salon/
〔ニコンサロン〕新鋭たちの写真空間 juna21
今井利佳写真展 真の証 ☆☆
ここに写る女たちは微笑むことなく、また睨みつけるでなく、同性の作家を見つめている。
同性を撮る、同性に撮られるていることを感じさせる写真が並ぶ。
写真展を見て、「女は…」とつくづく思う。
この作家もスクウェアフォーマットをうまく使っている、わたしのスクウェアフォーマットへの違和感はずいぶんと薄らいできた。
まだまだ写真を見る目ができてないな、と思うのは大判で焼いた作品についつい惹かれてしまう。
良いから大きくしたのだろうが、大きいから良く見えるのではないだろうかと不安になる。

〔ニコンサロンbis21〕 新鋭たちの写真空間 juna21
杉原真希子写真展 幸せの在りか http://www.k5.dion.ne.jp/~makinko/ ☆☆★
そこに写る被写体すべてが作家本人自体だという、セルフポートレート写真展である。
しかしそこに写る作者には気負いも睨みつけるような視線もなく、レンズを意識しないかのように振舞っている。
それを演技しているというのだろうか…、あまりにも自然である。
女35歳、10年も自分を撮り続けているとここまでこれるのだろうか。

2006/09/20

コニカミノルタプラザ、新宿ニコンサロンを訪れる

コニカミノルタプラザ、新宿ニコンサロンを訪れた


■コニカミノルタプラザ http://konicaminolta.jp/about/plaza/index.html
〔ギャラリーA〕
第8回写真を楽しむ仲間「せせらぎ」写真展 私の…別世界
“写真を楽しむ仲間の写真展”ということだが、見るものにその写真の楽しみを伝えきれたのかというのが第一印象である。作者たちは確かに“写すという作業”を楽しんでいるのであろうが、人が見て楽しむ写真なのかどうか。被写体への迫り方が中途半端であり、見る者を迷わせてしまっている。
「別世界」が何であるのか、それもよくわからず会場を出た。

〔ギャラリーB〕
第20回四字成句写真展 古希同人 ☆☆
平均年齢80歳の方々の写真展だという。当然写暦も長いのだろう、各人作品のレベルは高い。1枚1枚に迷いがない。
“どこかで見たような絵”もあるのだが、長いこと撮り続けた力なのだろうか、力強いものとなっている。

〔ギャラリーC〕
斉藤忠徳写真展 SAITO'S TOKYO ☆☆★
70年代から2005年までの作品なのだというが、なぜかその30年間という時の流れは感じず、作者が一貫して感じた世界を写し取っている。
都市構造は変わっても、人々は脈々と住み続けているということか。

■新宿ニコンサロン
〔bis21〕
山田康写真展 煙突の見える街
紅白の高い煙突から吐き出される白煙は非常に力強い。そのため、煙突がメインの写真は力強いものとなっているのだが、人や他の風景がメインであり“煙突の見える街”として入れざるを得なかった煙突のとってつけたような違和感、存在感のなさ。
“煙突”にこだわりすぎてはいないだろうか。

〔ニコンサロン〕 http://www.genken.net/
大澤寛幸写真展 ニガヨモギ
私にとっては残念なのだが“お手上げの写真”なのだ。
作品を見ることによって、頭が判断する以前に直感的に覚える感覚が“写真を見る感性”だと思うのだが。
強いて言えば、「薄気持ち悪い」なのだろうか。
どうも感覚的に苦手な写真なのである。

2006/09/12

ある葬儀

仕事で世話になった方の身内の葬儀に参列した。

神道系の新興宗教形式の葬儀であることはすぐにわかったのだが、教義がよくわからない。
帰宅後、ネットで調べた、最近は非常に便利である。
日本中に数十万の信者を持ち、一部の信者の自己本位な行動で被害者団体もある宗派であった。

私は信仰心がないので宗教に頼る心はよくわからないのだが、葬儀という人生の最後の節目の儀式に参列する人には死者の行く場所がなくては納得ができないのだろう。
たてまえでいえば日々の指針であるはずの宗教だが、実際のところ死の恐怖からの逃げ道になっているのではないだろうか。

まぁ、人に迷惑をかけない、人を騙さない、というのであればかまわないのであるが。

2006/09/09

トラブルとその処理

先日、仕事の現場でトラブルが発生し、朝から大騒ぎになった。
自分の担当している仕事ではないが、緊急対応としてすぐにとんで行った。
幸い、トラブルは大きな障害を与えることなく終わった。

しかし、その後の管理者や担当者の対応に大変憤慨することとなった。
「リスク管理」という名目で下請けに負担を押し付けることに疑問を思わぬ管理者や担当者。
非常に後味が悪くストレスの高じるトラブル処理であった。

2006/09/07

コニカミノルタプラザを訪れる

コニカミノルタプラザを訪れた。


■コニカミノルタプラザ http://konicaminolta.jp/about/plaza/index.html

〔ギャラリーA〕
フォト・プレミオ
24人の新しい写真家登場 FOTO PREMIO
向井 直子 [たいせつ]
写真展前半の絵の無造作に切られる足、微妙に傾ぐ線が気になってしまった。
スクウェアフォーマットは難しいと思うのだが、よく使いこなしており隙はない。
視線を迷わせることなく強い写真になっている。
1枚1枚にタイトルをつけているが疑問のあるものも多く、無理やりつける必要があったのだろうかと思う。

〔ギャラリーB〕
フォト・プレミオ
24人の新しい写真家登場 FOTO PREMIO
森下 大輔 [倍音の虹] http://www.geocities.jp/morisita_daisuke/
左手で物の感触を確かめながらも、右手では存在しないもののリアリティを推し量っている。
この二つの運動を一つの体にひきうけることで、ゆらぎは生まれる。
ゆらぎはなんら目的をもたない。増幅し、あるいは減衰し、変調しつつ、ただ欲望している。

作者が何を見、何を伝えたかったか、上の文章を読んでもまるでわからず、何回も作品を見返した。
作者の主観がそのまま機械的に作品に反映するわけもなく、よくわからないのだ。
影の中にある光という対比は強い絵となっている。

〔ギャラリーC〕
天津爛漫 -Tianjin in full bloom- 町田昭夫写真展
海外の写真は、“海外である”ということだけで新鮮である。
その地が中国あたりであれば“日本が捨て去ってきた郷愁のある光景”が広がりひきつけられる。
そういったプラス方向のバイアスを取り除いてみても、銀塩モノクロームのプリントは美しくすばらしい。
写真にメッセージ性がいるのか否か議論があると思うが、やはり私は作者が伝えようとするメッセージを聞きたいと思う。
だとすると作者は何を伝えようとしているのか。
写真の記録性だけではもったいないと思うのだが。

2006/09/06

「創造ネット」写真展 第1回「向かい風」を観る

「創造ネット」写真展 第1回「向かい風」 http://www.sozo-net.jp/ (東京芸術劇場 http://www.geigeki.jp/ 展示室2)を訪れた。

今まで写真展の感想はかなり辛らつに思うまま書いてきた。
「向かい風」展の出品者の大部分が旧知の間柄である。
だからといってこのブログのスタンスを今までと変えるわけにはいかないだろう。
ということなので、友人諸氏、もしこのブログを目にすることがあっても気にしないでほしい、悪口罵詈雑言を基本スタンスにしたブログなのだから。
そして、他人にきつく当たることで自分自身を追い詰めているのだから


「雲わく山」 須郷秀久
富士は日本中で一番撮影されている山ではないだろうか。
姿かたちが単純でなお美しいため多くの人がカメラを向ける。
そのために、独特の作品とすることが非常に難しい素材といえる。
“雲わく”とするにはちときつい、と思う。

「踊り子」 月田康子
この作品のコンセプトは踊り子そのものの内面に迫るものではなく、“姿かたち”を求めたものと思う。
黒くつぶれた空間をもっと効果的に使う可能性はなかったろうか。

「運河のほとり」 月田康子
フォトレタッチソフトで赤部分の彩度を上げ強調したものであるが、単に目に刺激的な赤を強調しても元々の姿かたちが弱くては補強しきれるものではないだろう。

「計測」 鈴木トモ子
魅力的な人物が写ってはいるのだが、迫り方が半端で弱くなってしまい残念。

「ハナショウブ」 古賀健一
花びらの優しさ、柔らかさが出る仕上げになっていたのだろうか。
色で逃げることをせずモノクロームで迫ったのなら、モノクロームから色を想像したかった。

「尾瀬彩景」 小松崎ミツオ
定番となってしまった尾瀬だけに“見慣れた絵”として見られてしまう不利なところがある。
多数の写真家がとり忘れた面を見つけていくのはとても難しいことだと思う。

「リハビリ」 小林正
疑問をあえて言えば、「なぜ8枚なのか」という点である。
手足のアップだけで全体を語る力作である。

「逆上がりができた」 高橋弘
この作品を見た瞬間、一生懸命逆上がりをする少女の姿よりも、影の動きのダイナミックさに視線がいってしまった。
影を追ったほうが生き生きしたものにならないだろうか。

「東京宵街」 鈴木渉
撮り方がとてもうまい人だと思う。
作品を見たとき、視線が迷うことがないのだ。
作者がどこを見ているのかダイレクトに伝わってくる力強い作品である。

「尾瀬の初冠雪」 鈴木トモ子
これもまた“見慣れてしまった尾瀬”である。
デジタルカメラなのだろう、どうしても望遠域に寄りがちになってしまう画角が息苦しさを感じてしまう。

「第2東名工事現場」 佐藤勝美
これもまた“よく見る絵柄”である。
開発によって作られる光景に違和感を出し切れず、弱くなってしまった。
いいポジションを得るのは難しいと思うが、画角にも工夫があってもよかったのではないか。

「バイク仲間」 佐川正則
残念なのだが、バイクの楽しさが伝わってくる作品にはなっていない。
説明する必要はない、作者自身の楽しさを伝えてほしい。

「足尾銅山に消された村」 永島盛次
“消された村”が写っていたのかは疑問である。
足尾の風景は写っていたが、作者の思いまでは写っていたのだろうか。

「講演デビュー」 松田誠也
絵に“主人公”が二つあり、どちらを見るのか迷ってしまう。
作者にしては「あれっ」と思う作品である。

「2006年横須賀ドブ板通り」 菅谷健夫
さて、私はこの手の作品が非常に苦手で困る。
1枚1枚を見ていると“弱い絵”にしか見えないのだが、全体としてみると“雰囲気がある”というやつだ。
どう評価していいのかわからない、お手上げである。

「春を待つ」 山本進
女の子が一人写っている作品が従来の作者のスタイルに近く、一番自然に思う。
人物主体にとってきた作者が、人物をあえて写さないアプローチを模索しているのだろう。

「ひじき刈りの里 - 西伊豆・岩地」 清久敬子
ひじきを刈る海女一人の絵が良く、他の絵とのバランスがとれなかった。
単写真でも良かったのではないだろうか。

「養蚕農家」 あらいがく
手馴れたものである。
絵の作り方が非常にうまい。

「里山の春」 中山敏
これまた“定番の桜”である。
開けていない里山であるゆえに絵がごちゃごちゃしてしまったのは残念に思う。

「虫おくり」 小倉洋一
この作者も絵作りのうまい人である。
ただ、最後の一枚には満足しているのだろうか。

「宇宙人の卵」 横井みつを
人物はゴーグルにマスクをつけ、シャボン玉に入り込むため大きなアクションもない。
非常に条件がきつい写真である。
廻りの大人の表情もいまいち、難しい素材である。

「夜神楽」 横井みつを
大勢の観客の中、自由にポジションを取ることができないという制約。
事前の準備が大切だということか。

「荻ノ島環状集落」 柳澤春廣
農作業の近影2枚に違和感がある。
極端にリズムが違う。

「祭りの顔」 佐藤秀夫
顔のアップは絵として必然的に強くなる。
会話のできる距離で撮り撮られる緊張感と安心感、それがまた絵を強くしている。

(すべて敬称略)

2006/09/05

「何をやってるんだか…」という悲壮感

最近はあまり良いこともないんだが、毎日まいにちの生活に充実感がない。
仕事を終え、電車を降り、家に着くまでの光景が昨日とまるで違っていないことに気がつく、この焦燥感。
「俺は毎日何をやっているのだろう」と思いたくもないのだが思ってしまう。
やることはたくさん山になっているし、やるべきこともたくさんある。

しかし、やりたいことがなんだかないように思えてしまう。

こんなふうに日常を無駄に過ごしていくのはつらいし、非常にいやなんだが…。

2006/09/04

ストレスを溜める

仕事でのことだが、業者からトラブルの連絡があった。

あわてて現場に行ってみると、ある事業所の所長がカンカンだという。
どういうことかと挨拶に行くと、「お前のところでは挨拶もなく人の職場で工事をするのか」という。
どうやら事業所内の伝達不足らしい、先週末打ち合わせたばかりだ。
「○○さんと打ち合わせさせていただきましたが」と言ってしまえば良かったのだが、そこは“大人の判断”である。

「どうもすみません、私どもの不手際でご連絡が遅くなってしまいました。
今後このようなことのないよう充分注意いたしますので、今日のところはご勘弁ください」。

こうしてストレスが溜まっていくのである。