sat's blog

2009/01/30

写真集『微笑みの降る星』長倉洋海 著 を見る

この著書は2008年に道立釧路芸術館で開催された写真展『微笑みの降る星』に合わせ発刊されたものである。

フォト・ジャーナリスト、長倉洋海氏の写真は例え戦地を撮ったものであろうとどこか暖かい。
氏が以前語っていたところによると、戦地に行っても戦闘を撮るのではなく、そこで生きる人々を撮るのだそうだ。
この写真集にはそうした人々、特に多くの子どもたちが写っている。

「戦地の子どもたちは可哀想だ」と短絡的に考えてしまうが、その瞳は美しく輝いている。
平和な日本でゲームに興じている子どもたちの方が“可哀想”なのかも知れないと思えてくる。

さすが、素晴らしい写真集である。

(A+)

集英社新書『手術室の中へ-麻酔科医からのレポート』弓削孟文 著 を読む

この著書は2000年に発刊されたものである。

病院、手術というものには出来るならお近づきになりたくないものである。
これまでに入院は1回、手術は2回受けた。
幸い、左下肢静脈瘤の手術であるから局所麻酔であり、たいしたものではなかったのだけど。

麻酔というと眠ってしまって痛みを感じない、というくらいに思っていた。
しかし、よく考えてみれば神経の働きをブロックしてしまったり抑えてしまったら、内臓の働きも当然抑制されてしまうはずだ。
それが、なぜ痛みを選択的に抑制することが出来るのだろう、本書を読み出すまではこんなことにも気がつかなかった。

本書は手術室の中で執刀医、外科医をサポートしている麻酔科医を主人公にしたレポートである。
麻酔科医、そんな分野の医師がいたのも知らない人も多いだろう。
幸い私は麻酔科医の存在は知っていたが、麻酔科医のはたす役割は入口であったようだ。
手術という侵襲的治療から患者を守る役割をはたしているとは考えてもいなかった。
また、手術中だけでなく、その前後の仕事も知りはしなかった。

なにも手術を受けたいというのではないが、手術室の内外でどのように患者を見つめ守っていく医師たちがいるのか、これがわかると心強くなる。

文章もわかりやすい、良い啓蒙書である。

(A)

2009/01/27

河出文庫『マスードの戦い』長倉洋海 著 を読む

この著書は1984年に朝日新聞社から『峡谷の獅子-司令官マスードとアフガンの戦士たち』を1992年に文庫化したものである。

ご存知の方もあると思うが、マスード氏はアフガニスタンのイスラム革命後に北部同盟の副大統領・軍総司令官・国防相となるが、2001年に自爆テロによって倒された。
「パンジシールの獅子」と呼ばれ、死後は「アフガニスタン国家英雄」と呼ばれた。

著者はフォト・ジャーナリストである。
本書を読むと、一流のフォトグラファーの面に、一流のジャーナリストの面が浮き出てくる。
フォト・ジャーナリストとはよく言ったものである。
写真家にも文章のうまい人はいないことはないが、ここまでのレポートを書ける人はそんなにはいないだろう。

なぜマスード氏なのか、なぜアフガニスタンなのかは、ベトナムに多くのフォトグラファーやジャーナリストが取材に訪れたことと同じ理由であろうと思う。
また、著者と比較的年齢が近かったマスード氏には人を引き付ける魅力もあったのだろう。

戦争、いや侵略がなければ多くの人たちが血を流すこともなく、涙することもなかった。
国は栄えたであろうし、人々が憎しみ会うこともなかったはずである。
特権階層が自分たちの利益を守ろうとし、超大国が自国の権益を守ろうと介入する。
憎しみが憎しみを呼び、悲劇が拡大していく。

宗教も思想も、本来は立派なものであったはずなのだが、個人の、特定の勢力の利益が入ってくるとおかしくなってくる。
権力は本質的に腐っていくものなのかもしれない。

マスード氏の宗教観は腐敗する前の立派なものであった、マルクスやレーニンがそうであったように。

(A+)

2009/01/26

岩波アクティブ新書『キッズテニス 「好き」を見つける「楽しい」を育む』伊達公子 著 を読む

この著書は2004年に発刊されているので、本来ならば著者名は「クルム伊達公子」であるのだが、どう名乗るかは本人が決めればいいことであるから余計なお世話ではある。

昨年より現役テニス選手として活躍を始めているが、1998年より始めた「伊達公子とテニスであそぼ カモン!テニスキッズ」をこの著書では紹介している。

テニスの上達書ではなく、テニスの入門書でもない。
テニスで楽しみ、テニスを遊ぼうという、テニススクールや学校の部活のテニスとは違う。

今、日本のテニス界はクルム伊達公子氏が13年のブランクを背負って復活しても、いきなり国内の主要大会で優勝を含む優秀な成績を上げ、世界ツァーに参戦してしまうことが出来るほど裾野が狭くなってきてしまっているように思う。
もちろん、クルム伊達公子選手の年齢を感じない実力があるにしてもだ。

「伊達公子とテニスであそぼ カモン!テニスキッズ」は“選手強化”でなく、テニスの裾野を拡げようという、クルム伊達公子氏の思いが感じられる。
クルム伊達公子氏の一番の思いは「子どもたちと楽しみ遊んでみたい」だったのだと思う。

子どもたちはそれぞれ個性を持ち、無限の可能性を持っている。
それをこういう形で応援する著者の姿を「できる人はいいな」と思うのではなく、自分の出来る形でやっていければと考えたいと思う。

(A)

2009/01/24

ちくま文庫『チャランポランのすすめ』森 毅 著 を読む

この著書は森毅氏が雑誌や新聞に書いてきたコラムをまとめた本『チャランポラン数学のすすめ』(1983年刊)を1993年に文庫本化したものである。

森毅氏が言う「チャランポラン」は「イイカゲン」とは違う、筋の通った「チャランポラン」なのである。
森毅氏は戦時中は非国民になりたいと思ったのだと言う、命がけの「チャランポラン」を目指すのである。
政府や会社が右を向けと言えば、綺麗に右を向くような恐ろしい社会に「No」と言えるように自分の頭で考え、あまり「真面目」にやらず「チャランポラン」にやろう、と訴えているのである。

ある意味、数学書よりも難しい、「コラム」にふんした「思想書」である。

(A)

病院でストレスとイボを治療し、献血に行って(438回目)、コニカミノルタプラザを訪れる

病院のメンタルヘルス精神科と皮膚科に行った。
前者はストレスから来る不眠と体調不良を前者で、足に出来たイボを治療するためである。
メンタルヘルス精神科はずいぶんと混んでいた。
私の行っている病院のメンタルヘルス精神科は、患者の話をよく聞いて心の奥底を理解し適切な助言を与えて心を落ち着かせるというものではなく、投薬によって症状を押さえつけるというものである。
たった二人の医師が1時間に20人も30人もの患者を診ている。
これでは患者が完治するということはないだろう。


通院後は新宿東口献血ルームに438回目の献血をしに行った。
東京都内だけでなく、神奈川県、埼玉県、千葉県などでも献血をしているが、このルームが一番しっとりと来る。
看護師の腕をどうこう言うのもどうかと思うが、一番うまいと思う。
ちょっと言わせてもらえば、VHSの時代は結構映画を楽しませていただいたが、DVD、BLの時代になってもそれについてきてくれていない。
これは何とかして欲しい。


続いてコニカミノルタプラザを訪れた。


コニカミノルタプラザ

〔ギャラリーA〕
フォト・プレミオ
FOTO PREMIO
岩本 浩典[WARNING!!]
多重露光の手法を用いた“写真”展である。
私は「写真」に対してはかなり狭い分野として見ているので、コラージュや多重露光という手法を使ったものはすでに「写真」ではなく、別の分野の「作品」であると感じている。
「写真」の力というのはやはり1枚1枚の瞬間を固定したものではないだろうか。
この作品は写真を素材にして作り上げられたものであり、写真とは感じられない。
故土門拳氏の「絶対非演出のリアリズム写真」、古いと言われるかもしれないが写真の本道はこれにあると思う。
(B-)

〔ギャラリーB〕
フォト・プレミオ
FOTO PREMIO
織田 健太郎[confrontations]
走る電車の中から車窓に映る街中を写し撮ったものなのだそうだ。
だからどうしても上から見下ろした写真ばかりになる。
「撮る方も撮られる方も意識していない」と言うが、写真には選択という“表現方法”が加わるためただの機械的記録から作品に昇華する事が出来る。
しかし、同じような距離感、内容の絵柄を30枚も並べられても正直な話退屈であり非常に疲れる。
(B-)

〔ギャラリーC〕
コニカミノルタプラザ企画展 長倉洋海写真展 [人間交路 SILK ROAD]
今日、コニカミノルタプラザを訪れたのはこの長倉洋海氏の写真展を観るためであり、「長倉洋海スライドトークショー」に参加するためである。
写真展はいかにも長倉洋海氏の写真展だ、と一目でわかる写真展になっている。
“長倉洋海調”とでも呼んでもいい雰囲気の写真展である。
長倉洋海氏は人物を撮るのがうまい、しかも彼のレンズのあて方は常に優しい。
「シルクロード」の作品群は「マスード」「エル・サルバドル」に次ぐ長倉洋海氏の柱になっていくのであろうと思う。
(A+)

木浦食堂がなくなってしまった

昨日、尾竹橋通を歩いていて気がついたんだが、三河島駅のそばの木浦食堂がなくなり、まったく別の店になっていた。
結構美味しくて、しかも安いんで気に入っていたのに残念である。
別の店の新規開拓が必須だなぁ。

2009/01/20

宝島社新書『ワーキングプア いくら働いても報われない時代が来る』門倉貴史 著 を読む

この著書は2年2ヶ月前に発行された本である。
小泉内閣から安倍内閣に変わったころである。

「古い自民党をぶっ壊して政治経済の構造改革を行う」のワンフレーズで行った結果は、「格差社会」の登場を招き貧富の差を拡大させた。
「ワーキングプア」「ホームレス」「生活保護世帯」「非正規労働者」を急増させたのは「構造改革」の唯一最大の成果と言えるのではないだろうか。
その先方を担いだ小泉純一郎を“熱狂的”に担ぎ出したのは、「ワーキングプア」「ホームレス」「生活保護世帯」「非正規労働者」に押し込まれた人たちであったというのは皮肉なことである。

こういう私自身、自分は“負け組”ではないとどこか勘違いをしているのであるが、いつ“負け組”に転落しても不思議がない社会にすでに日本はなってしまっている。
この著書は予言書であったとも言える。

しかし、この国の経済界を背負う人間たちはたかだか百万円から二百万円の年収で生活する“負け組”の姿を見て、良心の呵責がないのだろうか。
日本は経済制度として資本主義を採用している。
だから「勝者が総取り」しても良いとでもいうのだろうか。

日本国憲法が保障しなければならないとした「文化的で最低限の生活」はすでに有名無実と化している。
この秋までには総選挙が行われ、たぶん政権が変わるだろう。
しかし、その政権が真に「ワーキングプア」「ホームレス」「生活保護世帯」「非正規労働者」の問題を解決できるかどうか、私たちは良く考えて選択していく必要があるだろう。

(A+)

2009/01/19

ちくま新書『ウェブ進化論 -本当の大変化はこれから始まる』梅田望夫 著 を読む

この著書は3年前に発行された本である。
その中で「Web2.0」を論じ、googleを論じ、アマゾンを論じ、オープンソースを論じたというのは非常に先見性が高いと言わねばなるまい。

特に面白いと感じたのは、MSに始まる“旧態依然”のIT企業をネットの「こちら側」、googleなどの“新興勢力”をネットの「あちら側」と分類し、企業の世代交代が始まっていると論じているところだ。

そう考えると、ライバル企業を買収し大きくなったMS帝国のビル・ゲイツが現役を引退したのは、自分自身その辺がわかっていたのではないかと思えてくる。

面白く、「Web2.0」を良くわかっている著者である。

(A-)

2009/01/16

朝日文庫『釧路湿原』本多勝一 編 を読む

『釧路湿原』は三部からなり、本多勝一氏のほか中村玲子氏と杉沢拓男氏が執筆をしている。
本書は国立公園釧路湿原の観光書ではなく、ラムサール条約で守られた湿原ではなく観光開発などで破壊に瀕している釧路湿原の姿を豊富な写真と共に暴き出し、観光や開発という美名に隠されて実は破壊されていく釧路湿原の現実を告発している。
本書は非常にわかりやすい、本多勝一氏という元新聞記者の能力にもよるのだろうが、問題点がすぐ頭に入ってくる。
先に読んだ立花隆氏の著作とはここのところが大きく違うところである。
ほぼ同じ厚さの本であるが、3倍の速度、2日で読み終えてしまった。

こういったルポルタージュも著者により方向性が大きく変わってくるが、本書の示す方向、政治や企業によって破壊されていく大自然を守れない日本人の情けなさ、本質を理解できない愚かさを実感として感じる。

インターネットが普及し、テレビジョンでは多くの番組が流されている。日本中には多数の書籍が氾濫といっていいほど溢れている。
しかし、こうした“硬派”のルポルタージュ、弱者の立場に立ち見聞きしたルポルタージュは絶滅の危機に瀕しているといってもいいのではないかと思うことがある。
少し前だが、大手書店で店員に「ルポルタージュの棚はどこですか」と聞いたら、「ルポルタージュですか、あの、ルポルタージュってなんでしょうか」と聞き返されたことがある。
“ハウツー本”やいわゆる“実用書”、マンガが溢れかえっているが、例えば「日本の現状を知りたい」と考えその書籍を探すと情けない現状を目にすることになる。

こんなことではたして明日の日本が良くなっていくのであろうか。

(A+)

2009/01/14

中公文庫『脳死再論』立花隆 著 を読む

とりあえずまとめ買いした立花隆氏の著書の最後である。
署名からもわかるとおり、前著『脳死』の続編と言うか、後半と言うか、一体のものといっても良いと思う。
『脳死』から一貫して立花隆氏は“脳死”の要件として「器質死」を求め、「機能死」を批判している。
この点では、というか『脳死』『脳死再論』で展開する立花隆氏の論理には全面的に賛同できる。

参考資料として『脳死および臓器移植についての最終報告』が掲載されているが、“頭の良い医師”の展開する「機能死」を「脳死」とする論理展開を批判し危険性を声高らかに明らかにする洞察力は素晴らしいと思う。
一見「脳死」であると思われる「機能死」が本来の死でなく、脳内には意識が残っていたらと考えると非常に恐ろしく感じた。
できうるなら「機能死」を「脳死」であると論理展開する医師たちの言い分を紹介し、それに対し「脳死」は「器質死」でなければならないという構成であればもっとわかり良くなったのではないかと思う。

『脳死』『脳死再論』を読んで己を含む死を真剣に考えさせられた、労作である。

(A)

2009/01/07

中公文庫『脳死』立花隆 著 を読む

引き続いて立花隆氏の著書を読んだ。
前にも書いたとおり私は立花隆氏がはっきり言うと嫌いである。
しかし、40年近くも第一線の“ジャーナリスト”と活躍している人間を無視するわけにもいかず、また、“食わず嫌い”でもいけないと思い、氏の著書の中で比較的好奇心の沸く本を読み出したのである。

この『脳死』はその2冊目の本である。
先の『宇宙からの帰還』もそうだが、とにかく厚い本である。
詠み終えるのに約1週間もかかってしまった。

始めは読むのが遅くなったのかとも思ったのだが、よくよく考えてみると立花隆氏の文章に引き付けられる魅力が感じられるものがないのではないかと思うようになってきた。
好きな著者、例えば本多勝一氏の著書であればこんなにも時間はかからなかったと思う。
とすれば、好き嫌いで読書速度が変わるのであろうか。

本書で立花隆氏が展開する考察には同意できるものが多く、“本”の内容からすれば「好き」なものである。
では、立花隆氏個人が嫌いだからなのだろうか。
いや、そこまで影響があるとは思わない、思いたくない。

私が思うに、章立てにせよ、文章にせよ、「菊池寛賞受賞」者といっても文章能力、論理展開能力が人並み外れて好いのだろうか、という疑問になった。
簡単に言えば読みにくい文章なのではないか。
この疑問の答えはもう少し立花隆氏の著書を読むことによって出していきたいと思う。

しかし、「脳死」というものを厳密に定義づける必要、またそれを公開しておこなえという立花隆氏の主張には説得力がある。
かなり大部分の医師でさえ充分に理解しているのか疑問になる「脳死」をどの時点で「死」と定義するのか、難しい問題である。
22年前に単行本として出版された本書で問題提起された問題が20年近く経って一定の方向付けをされ、「殺人」としての臓器移植でなく、「死者」からの臓器移植となっているのか、追跡をしてみたくなったことは間違いない。

また、いずれわが身に訪れる「死」を今までは人事のようにしか思っていなかったのだが、本書を読むことによって“冷静”に見つめることができたことは収穫であった。

(A)